サラダで考える作るということ

こんにちは。ヤマヤタケシです。
どっかで誰かが言っていたことをふと思い出したので書きます。

「作る」というのは中々興味深いことです。
作るってなんじゃい?
そんなにエライのかい?
材料は調達したものだし、それを組み合わせているだけでしょ?

結論を言えば、うまいサラダを作る人はエライし、まずいサラダを作る人はダメってことです。

例えば、ある店のメニューにサラダがあったとします。
このサラダは誰が作ったのでしょうか?
料理人がいくつかの野菜を洗って切って冷やしてさらに盛ってドレッシングをかけました。
その野菜のひとつにキュウリが入っていたとします。
キュウリは農家が作って、運送業者が店まで運びました。
農家は「キュウリ」を作り、運送業者はキュウリを「運んだ」のです。
もちろん、どちらもサラダに貢献はしています。
でも、農家も運送業者も「サラダを作った」とは言いません。

なにが言いたいのか?

料理人が作っているのは「サラダ」という概念なのです。
サラダの材料とサラダは違うものなのです。

概念が違うからなんじゃい?
ビジネス的には、値段が変わります。
仮にサラダが1000円で売れたとします。
仮の原価を計算します。
人件費が200円。
運送費が100円。
キュウリが50円。
トマトが50円。
レタスが50円。
ドレッシングが50円。
皿が100円。
トータルで原価が600円だとすると400円の価値が増えました!
材料や労働力などをあわせた金額よりも、販売価格の方が増えるというのがビジネスの本質です。

「サラダ」は材料や労働力の価値を超えました!
料理人は「サラダ」を作ると原価よりも価値を増やしているので職業として成立します。

ダメな料理人が作るサラダが不味かったとします。
売れずにゴミになりました。ゴミの処理にトータル100円かかりました。
原価600円とゴミ処理料100円をあわせて、ダメ料理人は損失を700円生みました。
料理人の腕前により社会に生み出される価値が大きく変わります。

柔軟な料理人であればキュウリがなくても「サラダ」は作れます。
キュウリが運送トラブルで届かなかったとしても、ズッキーニとトマトとレタスを使ってサラダを作れます。

まとめると、「サラダ」は「キュウリとトマトとレタスとドレッシング」ではないということです。
「サラダ」は「生で食べれる野菜を選んで、調達して、選んだキュウリとトマトとレタスを洗って切って食べやすくして、ドレッシングで味付けして、見た目にキレイに盛り付けたもの」ぐらいに意味があります。
意味が増えると価値が増えます。

価値が増えることを「作る」と言います。

ゲームのプログラムというデジタルデータを作っているんですが、自分の仕事の生み出す価値がよくわからなくなったりします。なんで、生きていけるんだろう?と。

だからサラダで確認しました。

ゲームに価値はあります!
良いゲームで遊ぶと人間は快感を得ます。
快感こそが価値なのです。
価値はお金と交換できます。
お金は食べ物と交換できます。
だから、プログラム書いて生きていけるのです。

そんじゃまた。

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